この本の中に、「信念」というものについてのニーチェの言葉が記されています。

Ⅶ 人について P122 「怠惰から生まれる信念」

積極的な情熱が意見を形づくり、ついには主義主張というものを生む。

たいせつなのは、そのあとだ。

自分の意見や主張を全面的に認めてもらいたいがために、いつまでもこだわっていると、意見や主義主張はこりかたまり、信念というものに変化してしまう。

信念がある人というのはなんとなく偉いように思われているが、その人は、自分のかつての意見をずっと持っているだけであり、その時点から精神が止まってしまっている人なのだ。

つまり、精神の怠惰が信念をつくっているというわけだ。

どんなに正しそうに見える意見も主張も、絶えず新陳代謝を繰り返し、時代の変化の中で考え直され、つくり直されていかなければいけない。

 

私は、ここに記されているように、「信念」というものに何か公平さのようなものを映して、それを良しとしていた。

たとえば、常に同じものを追いかけていたり、同じ意見を主張する人を、信念がある人だと言って褒めたたえたり、或いは憧れたり。

もしくは、そういった信念というものを持つ人にこそ成功は訪れるものだと信じている節もあった。

だから、その場その場で意見を変えたり、やろうとしていることが代わる代わる変化していくことには、なかなか好感を持てなかった。

私の身近でのその最たるは、「青龍桜子」である、母だ。

とにかく母とその周りには、変化や方向転換というものが目まぐるしく渦巻いていて、ついていくのが困難だ。

振り回されるといっても過言ではない。

渦中の本人には、もちろん振り回しているつもりはないのだが。

とにかく状況や環境、考え方、方向転換などが様々絶え間なく目の前に起こり、それを乗り越えていかなければならないので、ついてこれなくなってしまう人もいる。

無理もない。

人は、「変わらないもの」に安心感を覚えるからだ。

意見が変わらない人。

あの人はこういう意見を曲げない人だから、こう対応しておけばいい。

一度学んだ対応や対処法を、相手が変化しない限り続けていけばいい。

そういう安心感。

しかし、常に状況が変わり、その都度異なる新しい対応の仕方を求められると、いったい次はどうしたらいいのだ、という落ち着かなさが常につきまとう。

それは、進化や成長とも呼べるとともに、安心感のなさともいえる。

それが嫌だから、変わらないことに安心感を覚えるから、変わらない主義主張=「信念」というものが偉いもののように思えるのだと思う。

しかし、人は一方で変化を望んでいたりもする。

安心安全な変わらないものを求める反面で、また、新しいものや状況への変化というスリルも味わいたい。

矛盾というよりは、欲張りなのだろう。

もしくは、生まれて死ぬまで外見から環境まで変化し続けて止まない人間の、不変というものへの憧れの形なのかもしれない。